7.1 ストレス生理学
ストレスは生体が外部の脅威に対応するための適応反応である。しかし、現代社会における慢性的なストレスは、本来の適応機能を超えて健康に悪影響を及ぼす。本章では、ストレス反応の生理学的メカニズムと健康への影響を解説する。
最終更新:2025年1月
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1. ストレスの基礎概念
1.1 ストレスの定義
ストレスは多義的な用語であり、文脈により異なる意味を持つ [1]。
- ストレッサー:ストレスを引き起こす刺激や出来事
- ストレス反応:ストレッサーに対する生理的・心理的反応
- ストレス状態:要求と対処能力の不均衡により生じる状態
1.2 ストレッサーの種類
| 種類 | 例 |
|---|---|
| 物理的 | 騒音、温度、痛み、疲労 |
| 化学的 | 大気汚染、薬物、アルコール |
| 生物学的 | 感染、炎症、睡眠不足 |
| 心理的 | 不安、恐怖、怒り、悲しみ |
| 社会的 | 対人関係、仕事、経済問題 |
1.3 ストレスの進化的意義
ストレス反応は生存のための適応機構として進化した [2]。
- 闘争・逃走反応:急性の脅威に対する即座の対応
- 資源の動員:エネルギーを緊急事態に集中
- 覚醒の向上:注意力、反応速度の増加
- 現代の問題:慢性的な心理社会的ストレスへの不適応
1.4 汎適応症候群
セリエは、ストレス反応の3段階モデルを提唱した [3]。
- 警告反応期:ストレッサーへの初期反応、闘争・逃走反応
- 抵抗期:適応により抵抗力が増加、エネルギー消費
- 疲弊期:長期ストレスにより適応機能が破綻、疾病発症
2. ストレス反応システム
2.1 二つの主要経路
ストレス反応は主に2つの神経内分泌系により媒介される [4]。
- SAM系:交感神経-副腎髄質系(即時反応)
- HPA軸:視床下部-下垂体-副腎皮質軸(持続反応)
2.2 SAM系(交感神経-副腎髄質系)
SAM系は数秒〜数分で作動する即時的な反応系である。
- 経路:視床下部 → 交感神経 → 副腎髄質
- 分泌物質:アドレナリン、ノルアドレナリン
- 作用時間:秒〜分単位
- 効果:心拍増加、血圧上昇、気管支拡張、瞳孔散大
2.3 HPA軸(視床下部-下垂体-副腎皮質軸)
HPA軸はより持続的なストレス反応を担う [5]。
- 経路:視床下部(CRH)→ 下垂体前葉(ACTH)→ 副腎皮質
- 分泌物質:コルチゾール(糖質コルチコイド)
- 作用時間:分〜時間単位
- ネガティブフィードバック:コルチゾールが視床下部・下垂体を抑制
2.4 ストレス反応の時間経過
| 時間 | 反応 | 主な物質 |
|---|---|---|
| 秒〜分 | 交感神経活性化 | ノルアドレナリン |
| 分 | 副腎髄質からの分泌 | アドレナリン |
| 分〜時間 | HPA軸活性化 | コルチゾール |
| 時間〜日 | 免疫系への影響 | サイトカイン変化 |
3. ストレスホルモン
3.1 コルチゾール
コルチゾールは主要なストレスホルモンである [6]。
- 分泌:副腎皮質から分泌される糖質コルチコイド
- 日内変動:早朝に最高、夜間に最低(概日リズム)
- 半減期:約60〜90分
コルチゾールの主な作用を以下に示す。
- 代謝:血糖上昇(糖新生促進)、脂肪分解、タンパク質分解
- 免疫:抗炎症作用、免疫抑制
- 心血管:血管収縮、カテコールアミン感受性増加
- 脳:覚醒、記憶への影響(海馬)
3.2 カテコールアミン
アドレナリンとノルアドレナリンは即時的な闘争・逃走反応を媒介する。
| ホルモン | 分泌源 | 主な作用 |
|---|---|---|
| アドレナリン | 副腎髄質 | 心拍増加、気管支拡張、代謝亢進 |
| ノルアドレナリン | 交感神経終末、副腎髄質 | 血管収縮、血圧上昇、覚醒 |
3.3 その他の関連物質
- CRH:視床下部からの副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン
- ACTH:下垂体からの副腎皮質刺激ホルモン
- DHEA:副腎からのストレス緩衝ホルモン
- プロラクチン:ストレス時に上昇
- 成長ホルモン:急性ストレスで上昇、慢性で低下
4. 急性と慢性ストレス
4.1 急性ストレス反応
急性ストレスは短時間の適応反応であり、通常は有益である [7]。
- 特徴:一過性、ストレッサー除去後に回復
- 生理的変化:心拍・血圧上昇、エネルギー動員
- 認知的変化:注意集中、記憶形成促進
- 適応的意義:パフォーマンス向上、危険への対処
4.2 慢性ストレス
慢性ストレスは長期間持続し、健康に悪影響を及ぼす。
- 特徴:持続的、回復機会の不足
- HPA軸の変化:過活動または鈍化
- フィードバック異常:ネガティブフィードバックの機能低下
- アロスタティック負荷:適応コストの蓄積
4.3 アロスタシスとアロスタティック負荷
アロスタシス理論は、ストレス適応のコストを説明する [8]。
- アロスタシス:変化を通じた安定性の維持(適応)
- アロスタティック負荷:繰り返しの適応による「摩耗」の蓄積
- 過負荷:アロスタティック負荷が限界を超えると疾病発症
- 累積効果:小さなストレスも蓄積すると大きな影響
4.4 急性と慢性の比較
| 側面 | 急性ストレス | 慢性ストレス |
|---|---|---|
| 持続時間 | 分〜時間 | 週〜月〜年 |
| コルチゾール | 一過性上昇後に正常化 | 持続的高値または日内変動の乱れ |
| 免疫系 | 一時的活性化 | 抑制、炎症の慢性化 |
| 認知機能 | 一時的向上 | 記憶・集中力低下 |
| 適応性 | 適応的 | 不適応的 |
5. 健康への影響
5.1 心血管系
慢性ストレスは心血管疾患のリスク因子である [9]。
- 高血圧:交感神経活性化による持続的血圧上昇
- 動脈硬化:炎症、内皮機能障害の促進
- 不整脈:カテコールアミンによる影響
- 心筋梗塞:急性ストレスがトリガーになることも
5.2 免疫系
ストレスは免疫機能に複雑な影響を及ぼす [10]。
- 急性ストレス:一時的な免疫活性化
- 慢性ストレス:免疫抑制、感染リスク増加
- 炎症:慢性的な低レベル炎症の促進
- 自己免疫:自己免疫疾患の悪化
- 創傷治癒:治癒の遅延
5.3 代謝系
| 影響 | メカニズム |
|---|---|
| 血糖上昇 | コルチゾールによる糖新生促進 |
| インスリン抵抗性 | コルチゾールの持続的高値 |
| 内臓脂肪蓄積 | コルチゾールによる脂肪分布変化 |
| 食欲変化 | 過食または食欲不振 |
5.4 脳・精神
慢性ストレスは脳構造と機能に影響する [11]。
- 海馬:神経細胞への毒性、萎縮、記憶障害
- 前頭前皮質:実行機能、意思決定の低下
- 扁桃体:過活動、不安・恐怖反応の増強
- 神経可塑性:BDNFの低下、神経新生の抑制
- うつ・不安:発症リスクの増加
5.5 消化器系
- 胃酸分泌:ストレスによる変化
- 腸管運動:下痢または便秘
- 過敏性腸症候群:ストレスで悪化
- 腸内細菌叢:ストレスによる変化
- 腸-脳軸:双方向の影響
5.6 その他の影響
- 睡眠:入眠困難、中途覚醒、睡眠の質低下
- 皮膚:湿疹、蕁麻疹、脱毛の悪化
- 生殖:月経不順、性機能低下、不妊
- 筋骨格系:筋緊張、頭痛、腰痛
6. 個人差と修飾因子
6.1 ストレス反応の個人差
同じストレッサーに対する反応は個人により大きく異なる [12]。
- 遺伝的要因:HPA軸の感受性、神経伝達物質の代謝
- 早期環境:幼少期のストレス体験が反応性に影響
- 性差:女性はHPA軸反応が異なる傾向
- 年齢:加齢に伴うHPA軸の変化
6.2 心理的修飾因子
| 因子 | 影響 |
|---|---|
| 認知的評価 | 脅威と感じるか挑戦と感じるかで反応が変化 |
| 統制感 | コントロール可能と感じるとストレス軽減 |
| 予測可能性 | 予測できるストレスは影響が小さい |
| 社会的サポート | サポートがストレス反応を緩衝 |
| コーピングスタイル | 対処方略により影響が異なる |
6.3 レジリエンス
レジリエンスは、ストレスからの回復力・適応力である [13]。
- 定義:逆境に直面しても適応する能力
- 構成要素:楽観性、柔軟性、社会的つながり
- 可塑性:訓練や経験により向上可能
- 保護因子:ストレスの悪影響を軽減
6.4 生活習慣の影響
生活習慣はストレス反応を修飾する。
- 運動:HPA軸の調節改善、ストレス耐性向上
- 睡眠:睡眠不足はストレス反応を増強
- 栄養:バランスの取れた食事が重要
- アルコール・カフェイン:過剰摂取はストレス反応に影響
- 社会的活動:つながりがストレスを緩衝
7. 参考文献
- [1] Lazarus RS, Folkman S. Stress, Appraisal, and Coping. Springer; 1984.
- [2] Sapolsky RM. Why Zebras Don't Get Ulcers. 3rd ed. Holt Paperbacks; 2004.
- [3] Selye H. The Stress of Life. McGraw-Hill; 1956.
- [4] Tsigos C, Chrousos GP. Hypothalamic-pituitary-adrenal axis, neuroendocrine factors and stress. J Psychosom Res. 2002;53(4):865-871.
- [5] Herman JP, et al. Regulation of the hypothalamic-pituitary-adrenocortical stress response. Compr Physiol. 2016;6(2):603-621.
- [6] Nicolaides NC, et al. Stress, the stress system and the role of glucocorticoids. Neuroimmunomodulation. 2015;22(1-2):6-19.
- [7] Dhabhar FS. Effects of stress on immune function: the good, the bad, and the beautiful. Immunol Res. 2014;58(2-3):193-210.
- [8] McEwen BS. Stress, adaptation, and disease: Allostasis and allostatic load. Ann N Y Acad Sci. 1998;840:33-44.
- [9] Steptoe A, Kivimäki M. Stress and cardiovascular disease. Nat Rev Cardiol. 2012;9(6):360-370.
- [10] Segerstrom SC, Miller GE. Psychological stress and the human immune system: a meta-analytic study of 30 years of inquiry. Psychol Bull. 2004;130(4):601-630.
- [11] McEwen BS, et al. Mechanisms of stress in the brain. Nat Neurosci. 2015;18(10):1353-1363.
- [12] Kudielka BM, et al. HPA axis responses to laboratory psychosocial stress in healthy elderly adults, younger adults, and children. Psychoneuroendocrinology. 2004;29(1):83-98.
- [13] Southwick SM, Charney DS. The science of resilience: implications for the prevention and treatment of depression. Science. 2012;338(6103):79-82.