「核の傘」の論理的矛盾考察|使わないものがなぜ傘になるのか
「核の傘」の論理的矛盾考察|使わないものがなぜ傘になるのか
更新日:2025年12月7日
1. 「核の傘」の論理構造と根本的矛盾
1.1 公式説明の構造
「核の傘」とは、核保有国(主にアメリカ)が同盟国を核攻撃から守るという概念である。公式の説明は次のような論理で構成されている:「アメリカが日本を核攻撃から守る。もし中国やロシアが日本を核攻撃したら、アメリカが報復核攻撃をする。だから敵は攻撃できない」。しかしながら、この論理には致命的な矛盾が内在している。
1.2 「使わない」と「使う」の両立不可能性
核抑止論の最も根本的なパラドックスは、「使わない」と「使う」を同時に成立させなければならない点にある。
| 主張 | 論理的帰結 |
|---|---|
| 「核は絶対に使わない」 | 敵は「どうせ使わない」と見抜く → 抑止力ゼロ |
| 「核は本当に使う」 | 使ったら全面核戦争 → 人類滅亡 → 守る意味がない |
すなわち、使わないなら傘にならず、使うなら傘の下も焼け野原になる。どちらに転んでも論理的に破綻している。
フランスのド・ゴール大統領は「アメリカがパリのためにニューヨークを犠牲にするはずがない」と述べた。この指摘は「同盟国のために、自国民を核戦争のリスクにさらすか」という本質的な問いを提起している。実際、フランスはこの疑念から独自核を開発した。
1.3 「曖昧戦略」という逃げ道
アメリカは「使うとも使わないとも言わない」という曖昧戦略を取っている。これは「敵に確信を与えない」という意味では一定の合理性を持つが、裏を返せば「使わない可能性が高い」ことを自ら認めているようなものである。曖昧さに依存する抑止力は、相手がその曖昧さを「ハッタリ」と見破った瞬間に崩壊する。
1.4 歴史的事実:傘は信用されなかった
1950年代から1960年代にかけて、アメリカの核の傘の下にいたはずの同盟国が次々と独自核開発を始めた事実は示唆的である。
イギリス(1952年)、フランス(1960年)、中国(1964年、当時はソ連の傘の下)、イスラエル(1960年代、非公式)。これらの国々は「傘を信じていないから、自分で核を持った」のである。
2. 核兵器使用の本質:死者の移行という現実
2.1 「敵国」の民間人という存在
核ミサイルが落ちる先にいるのは、朝起きて子どもを学校に送る親、病院で患者を診ている医師、パン屋でパンを焼いている職人、恋人と将来を夢見ている若者である。「敵国」という言葉は政治家と軍人が作った概念であり、その国に住む一人一人の人間は私たちと何も変わらない。核を撃つということは、その人たちを数十万人単位で焼き殺すということである。
2.2 「国を守る」の実態
| 建前 | 実態 |
|---|---|
| 「国民の命を守る」 | 相手国の「同じ人間」の命を奪う準備 |
| 「平和のため」 | 大量虐殺兵器を保有 |
| 「抑止力」 | 「俺を怒らせたらお前の国民を皆殺しにするぞ」という脅し |
「守る」という言葉の裏には、「殺す」という行為が必ずセットになっている。
2.3 死者数の数学的考察
仮に日本が核武装し、それを使用した場合の死者数を考察する。
| シナリオ | 死者 |
|---|---|
| 核を持たず攻撃される | 日本人X万人 |
| 核を持ち報復する | 他国民Y万人 + 報復でZ万人 |
地球全体の死者数は、核を持った方が増える。「日本人の命」と「他国民の命」を同じ重さで計算すれば、核保有は人類全体にとってマイナスである。死ぬ人が日本人から違う国の人に移行しただけであり、人類全体で見れば何も「守られて」いない。
チェルノブイリの放射能はヨーロッパ全土に広がった。核戦争の放射性降下物は「敵」も「味方」も関係なく地球全体を汚染する。「国を守るために核を使う」ことは「地球を汚染して人類全体を傷つける」ことと同義である。
3. 「国を守る」という概念の再検討
3.1 核武装のコストと代替用途
日本が核武装した場合のコストを試算すると、核弾頭開発に数兆円、運搬手段(ICBM/潜水艦)に数兆円、年間維持管理に数千億円、合計で初期費用と10年維持で10〜20兆円以上となる。
この10〜20兆円で実現可能なこととして、全国の学校の耐震化完了、医療・介護の人材不足解消、少子化対策の大幅強化、災害対策インフラ整備などが挙げられる。「国民を守る」という目的であれば、これらに使う方が確実に命を救える。
3.2 「国」という概念が思考を歪める構造
「国を守る」という言葉は無条件に正しく聞こえる。しかし冷静に考えると、「国」とは地図上の線であり、その線は過去の戦争の結果として引かれたものである。その線のために人を殺す価値があるのかという問いは、ほとんど提起されない。
歴史上、大量虐殺は常に「相手を人間として見ない」ことから始まった。核戦略では相手国民を「統計上の数字」として扱う。「日本人」と「中国人」は違う、「アメリカ人」と「ロシア人」は敵、このような思考の枠組みが同じ人間を殺すことへの心理的抵抗を下げている。
3.3 囚人のジレンマと脱出の可能性
現実論者は「相手が武装している以上、こちらも武装しないと殺される」と主張する。これは囚人のジレンマと呼ばれる構造である。
| 日本\相手 | 相手が非武装 | 相手が武装 |
|---|---|---|
| 日本が非武装 | 平和 | 日本が危険 |
| 日本が武装 | 相手が危険 | 軍拡競争 |
お互いが「相手を信用できない」から、両方が武装し、両方が損をする。しかし、この構造から抜け出した歴史的事例も存在する。
囚人のジレンマを超えた事例
- EUの成立:かつて何度も戦争したフランスとドイツが経済統合から政治統合へと進み、現在では戦争が想像できない関係を構築
- 南アフリカの核放棄:1990年代、保有していた核兵器を自発的に廃棄。アパルトヘイト終結と同時期に、国際社会への復帰を選択
3.4 誰が利益を得ているのか
核兵器は、作るのに莫大な税金を使い、使えば大量の民間人を殺し、使わなくても維持費がかかり、存在するだけで人類を危険にさらす。一般市民にとっては誰も得をしない。では誰が得をしているのか。
核開発には巨額の予算が動く。その予算で潤う人々として、防衛関連企業、研究機関、政治家への献金者が存在する。「国を守る」は、利益を得る人々にとって最高の正当化理由となっている。「核の傘」という概念も、アメリカが同盟国に影響力を維持し、日本が独自核開発をしなくて済み(表向きは)、防衛産業が通常兵器を売り続けられるという構造を支えている。
3.5 本質的な問い
「戦争に備える」という行為自体が、戦争を前提にしている。核を作ることは「敵」の存在を前提とし、軍隊を持つことは「殺す相手」の存在を前提とし、国防費を払うことは「いつか使う」ことを前提としている。「平和のための軍備」という言葉は、論理的に矛盾している。
本当に平和を望むなら、「殺す準備」ではなく「殺さなくて済む仕組み」に投資すべきではないか。地球という一つの惑星に住む同じ種族が、自分たちで引いた線を理由にお互いを焼き殺す準備をしている。この状況を「正常」と思っていること自体が、最大の異常かもしれない。
1945年以降、核戦争が起きていないのは、核抑止が機能しているからなのか、それともたまたま運が良かっただけなのか。誰にも証明できない。そして「たまたま運が良かっただけ」だった場合、いつか運は尽きる。
本記事は2025年12月7日時点の情報に基づいて作成されています。記事内容は個人的な考察に基づくものであり、安全保障政策に関する専門的な判断については関連分野の専門家にご相談ください。本記事は特定の政治的立場を推奨するものではなく、読者が自ら考えるための材料を提供することを目的としています。重要な判断については、複数の情報源を参考にしてください。
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