プロスペクト理論の数学的定式化と実証的基盤考察|カーネマンとトベルスキーによる意思決定理論の革新
プロスペクト理論の数学的定式化と実証的基盤考察|カーネマンとトベルスキーによる意思決定理論の革新
更新日:2025年11月10日
プロスペクト理論の基本的な考え方
なぜプロスペクト理論が必要だったのか
1979年、カーネマンとトベルスキーは権威ある経済学雑誌Econometricaに「Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk(プロスペクト理論:リスク下での意思決定の分析)」という論文を発表しました。これは、それまで経済学の常識とされてきた「期待効用理論」に挑戦するものでした。
期待効用理論は、人々が「こう決定すべき」という理想的な基準を示すものとしては優れていました。しかし、人々が実際にどう決定するかを説明するには不十分だったのです。カーネマンとトベルスキーは、実験を通じて人々の選択が期待効用理論の予測から系統的にずれることを示しました。
期待効用理論は、各選択肢の結果がもたらす効用(満足度)に確率を掛けて合計し、その値が最も高い選択肢を選ぶという理論です。例えば、50%の確率で100万円もらえる選択肢と、確実に50万円もらえる選択肢では、期待値は同じ50万円なので、どちらも同じように評価されるはずです。しかし実際には、多くの人が確実な50万円を選びます。
従来理論では説明できない人間の行動パターン
カーネマンとトベルスキーは、期待効用理論では説明できない三つの重要な現象を発見しました。
確実性効果:確実なものを過大評価する
実験で次のような質問をしました。「33%の確率で2500ドル、66%の確率で2400ドル、1%の確率で0ドル」と「確実に2400ドル」、どちらを選びますか?結果は驚くべきものでした。82%の人が確実な2400ドルを選んだのです。
期待値で計算してみましょう。前者は2500×0.33 + 2400×0.66 + 0×0.01 = 2409ドル、後者は確実に2400ドルです。期待値ではほとんど同じなのに、確実性が強く好まれました。
次に、両方の選択肢から「66%の確率で2400ドル」という共通部分を取り除いて質問しました。つまり「33%の確率で2500ドル」と「34%の確率で2400ドル」を比較すると、今度は83%の人が2500ドルを選びました。確率の違いはわずか1%なのに、選好が完全に逆転したのです。
この現象は「アレのパラドックス」としても知られています。ノーベル経済学賞受賞者モーリス・アレが1953年に発見したもので、期待効用理論における「独立性の公理」が現実には成立しないことを示す決定的な証拠となりました。共通部分を除去しただけで選好が変わるのは、期待効用理論の予測と矛盾します。
なぜこのようなことが起きるのでしょうか。人々は確実性に特別な価値を置きます。99%と100%の違いは、50%と51%の違いよりもはるかに大きく感じられるのです。これが確実性効果の本質です。
反射効果:利得と損失で態度が反転する
プロスペクト理論が発見した最も興味深い現象の一つが、利得と損失で人々のリスク態度が正反対になるという「反射効果」です。
利得の場面で実験しました。「80%の確率で4000ドル」と「確実に3000ドル」のどちらを選びますか?80%の人が確実な3000ドルを選びました。期待値は前者が3200ドルで有利なのに、多くの人がリスクを避けて確実性を選んだのです。これは利得領域でのリスク回避を示しています。
ところが、これをすべて損失に変えると、選好が劇的に逆転します。「80%の確率で-4000ドル失う」と「確実に-3000ドル失う」では、どうでしょうか?今度は92%の人が、リスクのある-4000ドルを選びました。確実な損失を避けて、リスクを取る行動に転じたのです。
これは驚くべき発見でした。従来の経済理論では、リスク態度は個人の性格で決まり、利得でも損失でも一貫しているはずでした。リスク回避的な人は常にリスクを避け、リスク追求的な人は常にリスクを取るはずだったのです。
しかし現実は違いました。同じ人が、利得の場面ではリスクを避け、損失の場面ではリスクを追求するのです。これは、人間が利得と損失を根本的に異なる方法で処理していることを示しています。
なぜこのようなことが起きるのでしょうか。利得の場合、参照点(現在の状態)から離れるほど追加的な喜びが小さくなります。だから確実な中程度の利得で満足します。一方、損失の場合、参照点から離れるほど追加的な苦痛が小さくなります。だから、どうせ損するならもっと損するリスクを取って、損失を避けられる可能性に賭けようとするのです。
隔離効果:共通部分を無視する
隔離効果は、期待効用理論の最も基本的な仮定、すなわち「人々は最終的な資産状態に基づいて選択する」という仮定への直接的な挑戦でした。
実験では二つの質問をしました。問題11:「あなたは追加で1000ドルもらいました。その上で、50%の確率でさらに1000ドルもらえるか、確実に500ドルもらえるか、どちらを選びますか?」84%の人が確実な500ドルを選びました。
問題12:「あなたは追加で2000ドルもらいました。その上で、50%の確率で1000ドル失うか、確実に500ドル失うか、どちらを選びますか?」69%の人が、リスクのある-1000ドルを選びました。
さて、最終的な資産状態を計算してみましょう。問題11で確実な500ドルを選ぶと、最終的に1500ドルになります。50%の確率で1000ドルを選ぶと、50%の確率で2000ドル、50%の確率で1000ドルになります。問題12で確実に-500ドルを選ぶと、最終的に1500ドルになります。50%の確率で-1000ドルを選ぶと、50%の確率で2000ドル、50%の確率で1000ドルになります。
つまり、最終状態で見れば両方の問題は全く同じなのです。どちらも「確実に1500ドル」対「50%の確率で2000ドル、50%の確率で1000ドル」という選択です。にもかかわらず、表現の仕方が違うだけで、人々の選好は正反対になりました。
これは何を意味するのでしょうか。人々は最初にもらった金額(1000ドルや2000ドル)を当然のこととして、そこからの変化だけに注目しているのです。つまり、その金額を新しい「参照点」として設定し、そこからの利得や損失で判断しているのです。
この発見は革命的でした。従来の経済理論は「効用は最終的な富の水準で決まる」と仮定していました。しかし人間は、最終状態ではなく、参照点からの変化で物事を評価していたのです。これは知覚心理学の「適応水準理論」とも一致します。人間の知覚システムは、絶対的な水準よりも変化に敏感なのです。
人々は最初にもらう金額(1000ドルや2000ドル)を参照点として、そこからの変化だけに注目します。
最終的な資産状態ではなく、参照点からの利得や損失で判断します。
これは従来の経済理論の基本的な仮定に反しています。
プロスペクト理論の三つの重要な特徴
特徴1:参照点からの変化で評価する
期待効用理論では「最終的に持っている資産の総額」で評価します。1000万円持っている人が100万円得れば、1100万円という最終状態で評価するのです。
しかし、プロスペクト理論では「参照点からの変化」で評価します。現在1000万円持っているなら、それが参照点となり、100万円の利得として評価されます。同じ1100万円という結果でも、元々100万円だった人が1000万円得た場合とは、心理的な価値が異なるのです。
特徴2:損失は利得の2倍以上重く感じる
100万円を得る喜びと、100万円を失う苦しみを比べると、失う苦しみの方がはるかに強く感じられます。実験では、損失が利得の約2倍から2.5倍の重みで評価されることが分かっています。これを「損失回避」と呼びます。
この性質により、人々は現状を変えたがらない傾向(現状維持バイアス)や、一度手に入れたものを手放したくない傾向(保有効果)が生まれます。
特徴3:確率を主観的に変換する
人々は、客観的な確率をそのまま受け取るのではなく、主観的に変換して判断します。小さい確率は実際より大きく感じ(1%を5%くらいに感じる)、中くらいや大きい確率は実際より小さく感じます(80%を60%くらいに感じる)。
これが、人々が宝くじを買う(低確率の大当たりを過大評価)と同時に保険にも入る(低確率の大損失を過大評価)という、一見矛盾した行動を説明します。
選択のプロセス:編集段階と評価段階
プロスペクト理論では、人々の意思決定を二つの段階で説明します。
編集段階では、選択肢を心の中で整理します。結果を参照点からの利得や損失として捉え直したり、同じ結果の確率をまとめたり、共通部分を無視したり、極めて低い確率の結果を切り捨てたりします。これは無意識のうちに行われる心理的な処理です。
評価段階では、編集された選択肢を数学的に評価します。各結果の「価値」に「決定ウェイト」を掛けて合計し、最も高い値の選択肢を選びます。ここで「価値」は参照点からの変化に基づき、「決定ウェイト」は確率を主観的に変換したものです。
| 現象 | 実験結果 | プロスペクト理論の説明 |
|---|---|---|
| 確実性効果 | 確実性があると選好が変わる | 確実性を過大評価する |
| 反射効果 | 利得と損失で態度が逆転 | 損失回避と感応度逓減 |
| 隔離効果 | 表現で選好が変わる | 参照点依存性 |
数学的な仕組みと実証研究
価値関数:S字型のカーブ
プロスペクト理論の核心は、価値関数と呼ばれるS字型のカーブです。横軸に参照点からの変化(利得または損失の金額)、縦軸に心理的な価値を取ります。
価値関数の三つの特徴
損失側が急峻:グラフは参照点(原点)の下側、つまり損失側の方が急な傾きを持ちます。これが損失回避を表しています。同じ金額でも、損失の方が心理的影響が大きいのです。
具体的に考えてみましょう。100万円を得る喜びと、100万円を失う苦しみを比較してください。直感的に、失う苦しみの方がはるかに強く感じられるはずです。実験では、損失が利得の約2倍から2.5倍の重みで評価されることが一貫して確認されています。
感応度逓減:グラフは参照点から離れるほど傾きが緩やかになります。これは「最初の変化が最も大きく感じられる」という原則です。
利得で考えてみましょう。資産が0円から10万円に増える喜びと、100万円から110万円に増える喜びでは、どちらが大きいでしょうか?絶対額の増加は同じ10万円ですが、前者の方がはるかに大きな喜びをもたらします。これは、参照点(0円)から離れるほど、同じ金額の変化の心理的影響が小さくなるからです。
損失でも同じです。0円から-10万円の損失と、-100万円から-110万円の損失では、前者の方がはるかに苦痛です。既に大きな損失を抱えている場合、さらに10万円増えてもそれほど追加的な苦痛は大きくありません。
この感応度逓減は、心理物理学の基本法則と一致しています。Weberの法則やFechnerの法則として知られる原理で、刺激の変化に対する知覚の変化は、基準となる刺激の大きさに依存することを示しています。明るい部屋で少し明かりを足しても気づきませんが、暗い部屋で同じだけ明かりを足すと大きな違いを感じるのと同じ原理です。
上側が凹、下側が凸:利得側(上側)は下に凸のカーブ、損失側(下側)は上に凸のカーブを描きます。数学的には、利得側で二階微分が負(凹)、損失側で二階微分が正(凸)です。
この形状が、利得ではリスク回避、損失ではリスク追求という行動パターンを生み出します。利得側で凹ということは、確実な中程度の利得の価値が、その期待値を持つリスクのある選択肢よりも高く評価されることを意味します。逆に損失側で凸ということは、確実な中程度の損失の価値が、その期待値を持つリスクのある選択肢よりも低く評価される(より嫌がられる)ことを意味します。
実際には、次のような式で表されます。
利得の場合:v(x) = x^0.88
損失の場合:v(x) = -2.25×(-x)^0.88
0.88という指数が感応度逓減を、2.25という係数が損失回避(損失は利得の2.25倍重い)を表しています。
確率加重関数:逆S字型のカーブ
人々は確率を主観的に変換します。この変換を表すのが確率加重関数で、価値関数とは逆のS字型(逆S字型)を描きます。
確率加重の特徴
小さい確率を過大評価:1%の確率を5%くらいに感じます、あるいは0.1%の確率を1%くらいに感じます。これは人間の認知の特性で、低確率の事象を実際よりも起こりやすいと感じる傾向があります。
これが宝くじの魅力を説明します。1000万分の1の確率で1億円当たるという宝くじを、人々は実際の期待値(10円)よりもはるかに高く評価します。客観的には損な賭けなのに、大当たりの可能性を過大評価して購入してしまうのです。
同時に、これは保険の魅力も説明します。火事や大事故など、めったに起きない災害の確率を過大評価するため、客観的な期待値以上のお金を払って保険に入ろうとします。保険会社の利益(保険料が期待損失を上回る部分)を喜んで払うのです。
中くらいや大きい確率を過小評価:50%の確率を40%くらいに、80%の確率を60%くらいに感じます。中程度から高い確率では、人々は実際よりも起こりにくいと感じる傾向があります。
これは、高確率の利得でリスクを避ける行動につながります。80%の確率でもらえると言われても、人々はその確率を過小評価し、確実性を好むのです。期待効用理論では説明できない、確実性への強い選好が生まれます。
確実性は特別:100%(確実)は正確に評価されます。しかし、確率の変化の影響は、どこで起きるかによって大きく異なります。99%から100%への変化(不確実から確実へ)は、50%から51%への変化よりもはるかに大きな心理的影響を持ちます。
これは「部分確実性」と呼ばれる性質と関連します。興味深いことに、人々の確率評価は加法性を満たしません。ある事象が起きる主観的確率と起きない主観的確率を足すと、1より小さくなる傾向があるのです。これは、人々が中程度の確率を全体として過小評価していることを反映しています。
四つの行動パターン
S字型の価値関数と逆S字型の確率加重関数が組み合わさると、四つの典型的な行動パターンが生まれます。
高確率の利得では慎重に:80%の確率で大金をもらえるとしても、確実な中程度の金額を選びます。リスクを避けるのです。
低確率の利得では冒険する:1%の確率でも大金がもらえるなら、試してみたくなります。宝くじを買う心理です。
高確率の損失では賭けに出る:80%の確率で大金を失うくらいなら、確実に中程度の金額を失う方がマシなはずですが、多くの人は賭けに出ます。
低確率の損失は避ける:1%の確率でも大損失があるなら、保険に入って避けたくなります。
プロスペクト理論が説明する日常行動
- 宝くじと保険の併存:低確率の利得を追求し、低確率の損失を避ける
- 損切りできない投資家:損失が確定するのを避けてリスクを取り続ける
- 値上げと値下げの非対称性:値上げは強く反発されるが、同額の値下げの効果は小さい
- 無料の魅力:100円が50円になるより、50円が無料になる方が魅力的
実験による検証
1979年の実験
カーネマンとトベルスキーは、主にイスラエルの大学生や教員を対象に実験を行いました。質問票形式で仮想的な選択問題を提示し、どちらを選ぶか答えてもらいました。サンプル数は問題ごとに66名から95名程度でした。
重要なのは、結果が統計的に非常に有意だったこと、そして同じパターンがアメリカやスウェーデンでも確認されたことです。文化の違いを超えて、人間の意思決定の共通パターンが存在することが示されました。
1992年の精密な測定
1992年、トベルスキーとカーネマンは累積プロスペクト理論と共に、より洗練された実験を発表しました。25名の被験者に対してコンピュータを使った実験を3回のセッションにわたって実施し、各人の価値関数と確率加重関数のパラメータを個別に推定しました。
実験では「確実同値物」という手法を使いました。例えば「50%の確率で100ドル」と同じ価値を持つ確実な金額はいくらですか、と尋ねるのです。理論的には期待値の50ドルになるはずですが、実際には40ドルくらいになります(リスク回避)。このような質問を様々な確率と金額で繰り返すことで、その人の価値関数と確率加重関数を推定できます。
結果は非常に一貫していました。損失回避係数の中央値は2.25、つまり損失は同額の利得の2.25倍重く評価されます。価値関数の指数は利得も損失も約0.88で、これが感応度逓減(遠ざかるほど影響が小さくなる)を表しています。確率加重のパラメータは0.61(利得)と0.69(損失)で、小確率の過大評価と中・高確率の過小評価を数値的に表しています。
さらに重要なのは、理論が予測する四つの行動パターン(高確率の利得でリスク回避、低確率の利得でリスク追求、高確率の損失でリスク追求、低確率の損失でリスク回避)が、25名中22名(88%)で確認されたことです。これは、理論が個人レベルでも強い予測力を持つことを示しています。
2020年の大規模追試:40年後の検証
2020年、Nature Human Behaviour誌に、プロスペクト理論の史上最大の追試研究が発表されました。これは心理学における「再現性危機」の文脈で特に重要な意味を持ちます。多くの有名な心理学研究が追試で再現されないという問題が指摘される中、プロスペクト理論はどうなのか、それを検証する大規模な国際プロジェクトが実施されたのです。
研究の規模は驚異的でした。参加者は4098名、19カ国から集められ、13の異なる言語で実施されました。研究方法は1979年のオリジナル実験とほぼ同一で、唯一の変更は通貨を現代の各国通貨に調整したことだけでした。すべての参加者が17項目すべてに回答し、個別項目レベルとパターンレベルの両方で追試を評価しました。
結果は圧倒的でした。17項目のうち16項目(94%)で、オリジナル研究と同じ方向の効果が統計的に有意に確認されました。理論が予測する13の主要な対比のうち12(92%)が追試されました。一部の国では100%の追試率を達成しました。
確実性効果はすべての国で確認されました。人々が確実性を過大評価する傾向は、文化を超えて普遍的でした。反射効果(利得と損失で選好が反転する)も広く追試されました。確率加重効果(小確率の過大評価と中・高確率の過小評価)も確認されました。
興味深いことに、1979年と比較して効果の大きさに若干の減衰が見られました。ただし、依然として強い効果が維持されていました。研究者たちは、この減衰の理由として、2019年のオンライン調査では1979年の対面調査よりも多様な被験者集団が含まれた可能性を指摘しています。
研究チームの結論は明確でした。「プロスペクト理論の実証的基盤は、あらゆる合理的な閾値を超えて追試される」。40年以上経っても、文化の違いを超えて、理論が記述する人間の意思決定パターンは普遍的に存在していたのです。
| 研究 | 対象 | 主な発見 |
|---|---|---|
| 1979年オリジナル | 66-95名 | 基本的な現象の発見 |
| 1992年精密測定 | 25名 | パラメータ推定、損失回避λ=2.25 |
| 2020年大規模追試 | 19カ国4098名 | 94%の項目で再現、普遍性の確認 |
理論の限界と今後の課題
プロスペクト理論は高く評価されていますが、完璧な理論ではありません。科学的誠実性の観点から、理論の限界を認識することが重要です。
参照点の決定という根本的問題
プロスペクト理論の最も重要な概念の一つが参照点ですが、実は参照点がどこに設定されるかについて、理論は明確な予測を与えていません。これは理論的にも実践的にも重要な問題です。
参照点の候補はいくつもあります。現在の資産水準、最近の期待、過去の最高値、社会的比較の対象、目標や希望水準など。実際の状況では、これらの要因が複雑に絡み合って参照点が決まると考えられます。
例えば、株式投資で考えてみましょう。100万円で買った株が80万円に下がった時、参照点はどこでしょうか?購入価格の100万円かもしれません(損失を確定したくない)。現在の市場価格の80万円かもしれません(これ以上損したくない)。あるいは、一度120万円まで上がったことがあれば、そのピークが参照点かもしれません(ピークからの損失)。
この問題に対して、Kőszegi and Rabin(2006, 2007)は「参照点は最近の期待である」という精緻化を提案しました。つまり、人々が期待していた結果が参照点になるという考え方です。これは魅力的な提案ですが、まだ十分に検証されていません。
経験と学習の効果
プロスペクト理論の効果は、経験によって変化するのでしょうか?この問題については、相反する証拠があります。
List(2003, 2004)の研究では、スポーツカードの経験豊富なディーラーは、初心者よりも保有効果(一度手に入れたものを手放したくない傾向)がはるかに弱いことが示されました。これは、経験により損失回避が弱まる可能性を示唆します。
一方、Pope and Schweitzer(2011)は、プロゴルファーの分析から興味深い発見をしました。プロゴルファーは、バーディパット(基準より良いスコアのためのパット)よりも、パーパット(基準のスコアのためのパット)の方を有意に高い確率で成功させていたのです。パー(基準)が参照点となり、それを下回ること(損失)を避けようとする動機が、より上を目指す動機よりも強かったのです。
これらの結果は、損失回避が完全には消えないことを示唆しています。ただし、何が参照点になるかは学習によって変わる可能性があります。
個人差の問題
損失回避の程度には大きな個人差があります。ある人は損失を利得の3倍重く評価するかもしれませんが、別の人は1.5倍かもしれません。また、確率加重の形状も個人によって異なります。
何がこの個人差を生むのかは、まだ十分に理解されていません。候補となる要因には、パーソナリティ特性(神経症的傾向など)、文化的背景、年齢、性別、経済状況、教育水準などがあります。
個人差を理解し予測できれば、より個別化された意思決定支援が可能になります。例えば、損失回避が強い人には特定の投資戦略が、弱い人には別の戦略が適しているかもしれません。
心理学的メカニズムの解明
プロスペクト理論は、人々が「何をするか」を記述することには成功していますが、「なぜそうするのか」という心理学的メカニズムの説明は限定的です。
なぜ損失が利得の2倍重く感じられるのか?進化的には、危険を避けることが報酬を得ることよりも生存に重要だったからかもしれません。しかし、これは仮説であり、まだ十分に検証されていません。
なぜ小確率を過大評価するのか?メディアでセンセーショナルに報道される低確率の事象(航空事故、宝くじ当選など)の影響かもしれません。あるいは、人間の確率理解の限界を反映しているのかもしれません。
これらの「なぜ」に答えることは、理論を深化させ、より効果的な介入方法を開発するために重要です。
最近の実証的議論
累積プロスペクト理論の中核的仮定に対して、最近いくつかの挑戦的な研究が発表されています。
Bernheim and Sprenger(2020)は、Econometrica誌において、ウェイトが結果の順位に敏感であるという証拠が見つからなかったと報告しました。これは累積版の核心的アイデアへの挑戦です。ただし、この研究はWakker(2023)により方法論的問題が指摘されており、議論は続いています。
Chung, Glimcher and Tymula(2019)は、反射効果(利得と損失で態度が反転する)が、リスクのない選択では観察されなかったと報告しました。同じ被験者がリスク下では反射効果を示したにもかかわらずです。これは、理論の適用範囲に制約がある可能性を示唆します。
これらの批判は重要ですが、理論全体を否定するものではありません。むしろ、理論をより精緻化し、適用可能性の境界を明確にする機会を提供しています。科学は常に発展するプロセスであり、批判と反論を通じて進歩するのです。
累積プロスペクト理論への発展と現在
オリジナル理論の問題点
1979年のオリジナルのプロスペクト理論は画期的でしたが、重大な数学的問題を抱えていました。
確率的支配の違反
最も深刻な問題は「確率的支配の違反」です。これは、明らかに良い選択肢よりも悪い選択肢を高く評価してしまう可能性があるという問題です。
例えば、サイコロを振って、偶数なら金額をもらい、奇数なら金額を払うゲームを考えます。各確率(1/6)を個別に変換すると、小確率が過大評価される場合、6つの結果すべてが過大評価されてしまいます。これは不合理です。
カーネマンとトベルスキー自身もこの問題を認識していましたが、当時は「明らかに悪い選択肢は事前に排除する」という暫定的な対処しかできませんでした。
その他の制約
オリジナルの理論は、結果が2つまでの単純な選択にしか正式には適用できませんでした。また、既知の確率を持つ状況(リスク)にしか使えず、確率が不明な状況(不確実性)には対応できませんでした。
累積プロスペクト理論による解決
1992年、トベルスキーとカーネマンは「累積プロスペクト理論」を発表し、これらの問題を解決しました。
累積加重という発想の革新性
最大の革新は「累積加重」という考え方です。個別の確率を変換するのではなく、累積確率を変換し、その差を取るという方法です。この一見技術的な変更が、理論の数学的整合性を保ちながら心理学的妥当性を高めるという、まさに理想的な解決をもたらしました。
サイコロの例で具体的に説明しましょう。サイコロを振って、偶数の目(2、4、6)が出たらその数字のドルを受け取り、奇数の目(1、3、5)が出たらその数字のドルを支払うというゲームがあるとします。
このゲームには6つの結果があります:-5ドル(確率1/6)、-3ドル(1/6)、-1ドル(1/6)、+2ドル(1/6)、+4ドル(1/6)、+6ドル(1/6)。
オリジナルのプロスペクト理論の問題:各確率1/6を独立に変換します。もし小確率が過大評価されて、π(1/6) > 1/6となれば(これは実際に起きます)、6つの結果すべてを過大評価することになります。つまり、このゲーム全体の価値が、合理的に考えられる値よりもはるかに高くなってしまうのです。これは明らかに不合理です。
累積プロスペクト理論の解決:まず、結果を最悪から最良に並べます:-5、-3、-1、+2、+4、+6。次に、各結果について累積確率を計算します。
利得側(上から累積):
+6ドル以上を得る累積確率:1/6
+4ドル以上を得る累積確率:2/6
+2ドル以上を得る累積確率:3/6
これらの累積確率に加重関数を適用し、差を取ります:
+6ドルのウェイト:w(1/6)
+4ドルのウェイト:w(2/6) - w(1/6)
+2ドルのウェイト:w(3/6) - w(2/6)
同様に損失側も計算します(下から累積):
-5ドルのウェイト:w(1/6)
-3ドルのウェイト:w(2/6) - w(1/6)
-1ドルのウェイト:w(3/6) - w(2/6)
重要な点は、最も極端な結果(+6ドルと-5ドル)だけが高いウェイトを受け取ることです。中間的な結果(+2、+4、-1、-3)は、似た値の累積確率の差として計算されるため、自動的に小さなウェイトを受けます。
これは心理学的に非常に妥当です。人々は実際、極端な結果(大当たりや大損失)に注目し、中間的な「平均的」な
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