更新日:2025-08-16

旧石器時代には、すでに「粉+水+熱」からなる無発酵フラットブレッド様の食品が存在していました。約3万年前の石器に残るデンプン粒、約2.3万年前の野生穀の定常的処理、約1万4,400年前の炭化断片など、考古学的証拠は積み上がっています。本稿は、その証拠の読み方、作業連鎖(採集→粉砕→調湿→焼成)、原材料構成、加熱体系、微視構造、栄養・社会的利点を整理し、現代で再現する手順まで提示します。

1. 定義と射程:旧石器の「パン」とは何か

本稿では、酵母や化学膨張剤なしで、粉状デンプン資源を水でまとめ薄く焼いた食品を広義の「パン(フラットブレッド)」と呼びます。これは現代のチャパティやトルティーヤに近いカテゴリーで、粉+水+熱という最小構成から成ります。発酵による多孔質のパンは新石器以降に一般化しますが、「粉を焼く」という行為自体は旧石器終末に確立していたと考えられます。

旧石器のパン=設備も希薄な環境で成立する、普遍的な調理プラットフォーム

2. 主要証拠:Shubayqa・Ohalo・Bilancino ほか

代表的な三系列の証拠があります。(1)実物断片:ヨルダン北東部 Shubayqa 1 の炭化パン様遺物(約14,400年前)。(2)連続的処理の痕跡:イスラエル Ohalo II(約23,000年前)での野生穀の集積と石皿磨耗。(3)デンプン残渣:伊 Bilancino II、露 Kostenki、チェコ Pavlov(約30,000年前)の石器表面に付着したデンプン粒。これらは、粉砕・調湿・焼成という一連のプロセスが旧石器段階で成立していたことを、年代の異なる角度から示します。

読み解きのコツ:炭化断片は材料が混在します。植物細胞片の形態、デンプン粒の熱変性痕、気孔の有無とサイズ分布を総合して、無発酵薄餅と判定します。

3. 作業連鎖:粉砕・ふるい・調湿・成形・焼成

粉砕とふるい

平石(石皿)と握り石(マノ)で破砕し、枝・繊維の粗ふるいで外皮や大粒を除去。必要に応じて再粉砕を繰り返し、粗挽き~中挽きの粒度を得ます。粒度は携行性と消化性、焼成時間に直結します。

調湿と成形

粉に水を加え、硬めの生地にまとめます。塩は必須ではありません。直径10–15cm、厚さ3–6mmの円盤は、熱通りと携行性の最適解でした。小孔(ドッキング)は蒸気抜きと破裂防止に有効です。

焼成

熱石直焼き・灰中焼き・板上焼き(薄板・土器片)など、燃料と場に応じた方式が併存。石の予熱と灰層の使い分けで、表面焦げを抑え中心まで糊化させます。

4. 原材料の多様性:穀類と塊茎のブレンド

旧石器の粉は単一穀ではなく、野生エンマー/エインコルン・オオムギ・カラスムギと、抽水植物の塊茎(例:Bolboschoenus など)を併用するブレンドが一般的でした。塊茎は甘味・粘結性を付与し、穀類不足を補います。ブレンド比は季節・採集成功率・保存在庫に依存し、味と栄養のリスク分散として機能しました。

5. 加熱技術:熱石・灰中焼き・板上焼き

熱石直焼きは短時間で香ばしさが出る一方、局所過熱による焦げリスクがあります。灰中焼きは葉・樹皮で包み、灰の中に埋設して間接加熱するため均一な糊化を得やすいのが利点。板上焼きは携行可能な「調理面」を実現し、風の強い環境でも安定します。

燃料事情:低木・葦・動物糞など、現地調達・乾燥容易・煙量管理が鍵。熱石は熱容量が高く、温度の平滑化に寄与します。

6. 微視構造と食感:炭化断片の読解

無発酵薄餅は大気泡を持たず、細かい粒子と植物細胞片が緻密に充填された組織が特徴です。デンプン粒の亀裂・膨潤・糊化痕が観察され、薄層内での熱勾配は小さく、短時間焼成でも中心まで加熱できたと推定されます。香りは穀・塊茎ブレンド由来の穏やかな甘香とナッツ様のトーンが主体だったでしょう。

7. 栄養・社会的意義:携行・配分・安定化

粉は乾燥して保存しやすく、再水和して即調理が可能です。可食部の均質化は分配コストを下げ、狩りの不確実性を補完しました。薄餅は携行食・離乳食・高齢者食としても適合し、集団のエネルギー安定化に寄与したと考えられます。

粉は「食料の通貨」――測れる・貯められる・配れる。旧石器の粉食は、その原初形態だった。

8. 再現レシピ:旧石器風フラットブレッド

配合(約4枚・直径12cm)

  • 粗挽き全粒粉:60 g(強すぎない小麦粉)
  • 押し麦または大麦粉:40 g
  • 乾燥塊茎粉(じゃがいもフレーク代用):10–15 g
  • 水:60–70 g(硬めに調整)
  • 塩:少々(任意)

手順

  1. 粉を混合し、水で硬めにまとめる(こね過ぎない)。
  2. 直径12cm・厚3–4mmの円盤に伸ばし、小孔を数か所。
  3. 熱した厚手フライパン(または石板)で片面1–2分ずつ。灰中焼き代替は、ホイル包みで230℃×7–9分+開放1分。
仕上がり調整:広がり過ぎ→粉を小さじ1追加。硬すぎ→水小さじ1。焦げやすい→火力を一段下げ予熱を長めに。

9. 時系列と証拠対応表

年代(BP)地域・遺跡証拠タイプ示唆される工程/食品
≈30,000 Bilancino II(伊)、Kostenki(露)、Pavlov(チェコ) 石器のデンプン粒・磨耗痕 複数資源の粉砕・ふるい、薄餅の前提技術
≈23,000 Ohalo II(イスラエル) 野生穀の集積・石皿の使用痕 粉砕→調湿→焼成の連続工程
≈14,400 Shubayqa 1(ヨルダン) 炭化パン様断片・微視構造 無発酵フラットブレッド(穀+塊茎ブレンド)

10. 技術マップ(UML)

旧石器のパン技術マップ(工程と資源)
解釈:右枝の「保存・携行」は不作の平準化や移動時のカロリー供給に寄与。中心系列は最小装備で完結する調理プラットフォーム。

参考・免責:本稿は教育目的の総説です。年代・分類・用語には学術的議論が残ります。実務・研究利用時は一次資料をご確認ください。

  • Arranz-Otaegui, A. et al. (2018). Natufian bread-like products at Shubayqa 1, Jordan. PNAS.
  • Revedin, A. et al. (2010). Thirty thousand-year-old evidence of plant food processing. PNAS.
  • Nadel, D. et al. (2012). The Ohalo II site and plant processing. Antiquity.
  • 総説:Pasqualone, A. (2018). Traditional flat breads: history and technology. Current Research in Food Science.